福島県立医科大学産科婦人科学講座では後期臨床研修医を募集しております

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講座の歴史・概要

歴代教授

初代
 昭和20年10月~昭和21年7月
柴生田 鉄策 教授
第二代
 昭和21年8月~昭和31年5月
九嶋 勝司 教授
第三代
 昭和31年10月~昭和33年4月
鈴木 泰三 教授
第四代
 昭和33年4月~昭和44年7月
貴家 寛而 教授
第五代
 昭和46年4月~昭和60年3月
福島 務 教授
第六代
 昭和60年9月~平成21年3月
佐藤 章 教授
第七代
 平成21年8月~
現職 藤森 敬也 教授

当講座の歴史は1922(大正11)年9月、柴生田鉄策教授が、福島県立医科大学の前身である公立福島病院(当時:三郡共立病院)に産婦人科部長として赴任した時から始まった。それまでの産婦人科は、外科医によるものであったが、その後産婦人科としての手術室や分娩室ができたという。


産婦人科学教室の黎明期~柴生田教授時代

柴生田は
1941(昭和15)年1月 公立福島病院副院長
1942(昭和17)年5月 福島県母性保護会理事長
1942(昭和17)年11月 日本母性保護会理事 と、県内外にて精力的に活動した。
1944(昭和19)年4月 公立福島病院から福島県立女子医学専門学校(福島県立医科大学の前身)が創立、同時に附属医院部長、産婦人科医長になり
1946(昭和20)年10月 福島県立女子医学専門学校の産婦人科学教室の初代教授となり、真の意味での産婦人科学教室の出発であり、教授を含めて5名でのスタートとなった。
当時の教授の教育診療理念より、産婦人科医としての二つの生命の尊さと責任、そして、分娩の厳粛さを重んじる教室となっていった。


九嶋教授時代

後任として1946(昭和21)年8月、東北大学より九嶋が福島県立女子医学専門学校講師として嘱託され、本格的に教育・研究・診療が始まった。九嶋教室の10年間は、社会的には終戦直後の政治経済の大混乱期であり、学校としては女子医専存続から医大への昇格問題と、それに付随して附属病院施設整備、飯坂国立病院の払い下げ、分院化など波乱に富んだ一時代であった。

1947(昭和22)年、復活の日本産科婦人科学会総会が大阪で開催され、1949(昭和24)年には仙台市で第1回日本産科婦人科学会が開かれた。この時九嶋教授は「晩期妊娠中毒症の臨床」と題するいわゆる宿題報告を行い、それ以来教室は実験妊娠中毒症(自律神経中枢と妊娠中毒症の関連)と自律神経失調症を研究二大テーマとして全教室員が取り組んだ。

国民服で福島駅に着いた九嶋教授を迎えたのは医局長以下4名であったが、以来全国各地から続々と入局者が増えた。本学は勿論のこと、北大、弘前大、東北大、前橋、東京、昭和、帝国東京女子医専、千葉、慈恵、日本医大、遠くは久留米からも個性豊かな人々がそれぞれに志と希望をもって集まって来た。男女年齢も千差万別で、まさに戦後の世相をそのままに10年間に九嶋教授を慕ってきた門下生は89名に達した。1951(昭和26)年夏、平和通りの産婦人科新病棟に全員が器物を運んで引っ越した。

10年間を通じて分娩数は少なく、年間80~100程度であった。分娩の度に鐘をカランカランと鳴らして医局員が4、5人集まりミーティングが行われていたが、その雰囲気は真剣そのものであったという。

1956(昭和31)年5月16日、九嶋教授は東北大学教授の辞令を受け福島を去った。その後秋田大学医学部の創設に関わり、秋田大学教授、医学部長、学長へ就任した。

鈴木教授時代

アメリカ留学中の鈴木泰三助教授が3代目教授を継いだ。鈴木教授は、1949(昭和24)年10月入局以来、1951(昭和26)年4月助手、同年10月講師、そして1955(昭和30)年9月助教授になられ、翌1956(昭和31)年5月に九嶋教授が退任後、同年10月産婦人科学講座担任となり1958(昭和33)年3月教授に就任した。

この間、1955(昭和30)年11月より1957(昭和32)年1月まで、ロックフェラー医学研究所(アメリカ、ニューヨーク市)に留学し、主な業績として自律神経系および内分泌系に関する論文を多数執筆した。鈴木教授時代は短く、1958(昭和33)年4月15日付で東北大学医学部環境医学現応用生理学講座教授に就任し福島を去った。

貴家教授時代

1958(昭和33)年4月16日、鈴木教授の後任として、貴家が福島県立医科大学産婦人科学教室の第4代教授として赴任した。貴家教授は一連の大学紛争に巻き込まれながらも、1969(昭和44)年退職するまでの11年間を教授として務めた。

教室発足当時の主なテーマは、教授が東北大学時代に培った性器結核の研究をベースにした、卵管の病態生理の研究及び卵管不妊の研究であった。それに関連した不妊症の診断・治療に関する問題について、秋山助教授をチーフとして、数多く取り上げた。

1959(昭和34)年頃より、絨毛癌の血液中癌細胞の研究も行い、当時としては画期的な研究として注目されたテーマであり、継続的に研究が行われた。
1962(昭和37)年来、大川助教授時代には、更に膣上皮細胞の病態生理や各種薬剤の影響についての研究が加わった。特に、膣トリコモナス症の病態生理及び治療の研究を行っていった。分娩生理については、生理学教室と共に陣痛計を試作しての研究も行われた。

学会関係の業務としては、1960(昭和35)年6月に第28回東北地方連合地方部会、1961(昭和36)年10月第15回東北・北海道医師会連合会総会の二つの学会を担当し、卵管不妊に関する研究と題して特別講演を行った。更に、日産婦学会福島県地方部会、日本不妊学会東北支部、日本母性衛生学会福島県支部などの事務所を設置してから教室の学会関係の仕事も多くなり、各学会の地方部会を始めとして県内各地において学会を主催した。

全国規模の学会としては、1963(昭和38)年10月に第38回臨床細胞学会秋期大会を福島市農協会館ホールにおいて、1966(昭和41)年5月、第8回日本不妊学会東北支部総会を福島市高湯において、第12回日本不妊学会総会を福島市飯坂温泉市民センターにおいてそれぞれ主催した。

1963(昭和38)年5月、医科大学附属病院長に就任し数々の新制度を導入した。院内報の発行、毎朝の連絡会議、月1回の各部会合等により院内外の連絡体制の確立のほか、玄関案内サービス係の設置、投薬待時間の合理化、医療相談室の新設等により患者サービス面の大幅な改善を行い、思いきった斬進的なアイデアを取り入れた。

福島教授時代

1971(昭和46)年4月、北海道大学助教授の福島が第5代教授として就任した。
1985(昭和60)年に退職するまでの14年間、教室は実にさまざまな分野において優れた研究が行われた。

福島教授在任中の教室研究のテーマは、大別して次のように分けられる。
1)貴家教授時代からの卵管性不妊に関する基礎的研究
2)福島教授指導の染色体学的分析を中心とした、流産、絨毛性疾患に関する研究
3)関本助教授を中心とした子宮頚癌の診断治療に関する研究
4)その他
 ① 卵管性不妊に関する研究
 ② 流産、絨毛性疾患に関する研究
 ③ 子宮頚癌の診断、治療に関する研究

その他6年にわたり4名が西アフリカ・ガーナに長期出張し、貧血・トキソプラズマなどに関する研究を行い、各種学会で発表した。

佐藤教授時代

1985(昭和60)年9月、佐藤が東北大学講師より第6代教授として赴任した。
2009(平成21)年に退職するまでの実に24年間、附属病院産科婦人科部長、附属病副院長、医学部附属看護学校長等の要職を歴任するなど、福島県立医科大学の発展のため尽力した。その間、入局者は77名を数えた。

赴任当時、体外受精の第一人者 星和彦 助教授(その後、山梨大学産婦人科学講座・教授)が着任、その後、1988(昭和63)年4月には遠藤力 講師が着任し、佐藤教室が完成した。 

教室は柳田講師(現・国際医療福祉大学・教授)を中心とする不妊症に関する研究、遠藤講師を中心とする妊娠羊を用いた胎児生理学の研究やマイクロサージェリーといった、新分野における幅広い研究をおし進めていった。

佐藤教授は、日本の産婦人科医療、特に産科・周産期医療の中心的存在として活躍、中でも日本新生児学(現:日本周産期新生児医学会)では、2003(平成15)年から3年間は理事として、さらに2006(平成18)年7月から1年間は初代理事長として、学会の発展のみならず、日本全国の周産期療・新生児医療の発展にも寄与した。また、日本産科婦人科学会では、1999(平成11)年4月から2005(平成17)年4月までの6年間理事して活躍、同時に周産期委員会委員長や広報委員会委員長を兼務し、その後の4年間は監事として、大きな改革期にある学会の運営の重責を担った。特に、日本産科婦人科学会周産期委員会委員長時代には、「胎児心拍数図に関する用語・定義の改定」や「胎児仮死の用語に関する改定」、「妊娠中毒症の用語の改定」といった数々の定義や用語の歴史的な改定に携わった。とりわけ、2006(平成18)年4月に開催された第58回日本産科婦人科学会学術講演会において教育講演「患者が選ぶ帝王切開」を、2008(平成20)年4月に開催された第60回日本産科婦人科学会学術講演会において特別講演「日本の周産期医療の将来に望む」を講演、当時の日本の周産期医療の問題点を指摘し、将来へ向けての道しるべを示し、学会会員のみならず、日本全国の周産期医療従事者から、多くの賞賛を受け、それにより日本産科婦人科学会の名誉会員に推挙された。

佐藤教授はさらに、福島県内の産科救急医療ならびに周産期母子医療センター設置にも積極的に取り組み、周産期医療救急システムの構築や福島県立医科大学総合周産期母子医療センター設置にも貢献した。その活躍は周産期領域だけに留まらなかった。不妊治療領域においては、1994年に我が国初の顕微授精「卵細胞質内精子注入法」による出産例を本学から報告し、福島県立医科大学の不妊治療のレベルの高さを日本全国に知らしめた。さらに、婦人科腫瘍領域では、福島県保健衛生協会理事を長年勤め、子宮癌の診断・治療に尽力し。

福島県立医科大学はもとより広く医学界、そして社会全体にも大きな貢献をした。

佐藤教授は「福島の産婦人科の歴代教授は、誰も定年を全うしていない。俺は定年を全うする。」が口癖であった。その言葉通り定年は全うしたが、退任して1年半後、2010年6月28日に永眠した。

藤森教授時代

平成21年8月1日より、佐藤章教授の後任として第7代教授に就任した、本学出身の初の教授である。

学生教育に重点をおき、福島県内の産婦人科医を増やすことに、毎日、奮闘している。また専門医教育においては、周産期医学/婦人科腫瘍学/生殖・内分泌学のすべての分野においてバランスの取れたgeneralistを多数育成し、さらに、「周産期医学/婦人科腫瘍学/生殖・内分泌学/内視鏡治療/臨床遺伝学/臨床細胞診断学/超音波診断学/…」など多岐にわたるspecialistを沢山育てている。

研究面では、臨床に携わっているからこそ生まれてくるアイデアを生かし、臨床に還元できる世界的レベルの研究を、生殖・内分泌学、婦人科腫瘍学、胎児生理学分野で行っている。


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